「主に喜ばれる教会づくり」   ローマ書12章3―8節 2021.2/28 港キリスト教会

  「主に喜ばれる教会づくり」 

ローマ書12章3―8節  2021.2/28  港キリスト教

 緊急事態宣言発令から7週目になりました。来週には解除して欲しいのですが、このような状況になって、教会で礼拝できることの有り難さと教会の必要性やその大切さを覚える機会にもなりました。

 そのような状況の中で、けさはこの箇所から教会とは何か、また教会形成において大切なこととは何かをご一緒に学びましょう。

 

 3節から8節の背景についてですが、

パウロは、教会とは何か、また教会形成において大切なこととは何かを語っています。

 まず、3節においてパウロは、教会のメンバー一人ひとりの心の在り方(状態)において注意すべきことを教えています。それは、「思い上がり」という態度であります。

 この「思い上がり」は、この節の最後にある「慎み深く考えなさい」とは真逆です。

 例えば、傲慢な心はその人の信仰を歪(ゆが)めていきます。3節の共同訳では、「自分を過大評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」と訳しています。 

 教会では周りの人の評価よりも、信仰による健全な自己評価が求められるのです。

 私たちは、自分に対する他の人の評価が気になると同時に、他の人を何かと評価しがちです。

 しかし、パウロは神様が一人ひとりに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、「慎み深く考えなさい」(へりくだった考え方)と勧めているのです。

 なぜなら、一人の傲慢(思い上がり)は教会を不健全(居心地の悪い情況を生み出し)なものにし、一人の謙遜(慎み深さ)は教会を健全(心が平穏な雰囲気を生み出す)にしていくのです。

 次に4、5節においてパウロは、教会を人のからだにたとえているのです。

 そのたとえによって、パウロは何を語ろうとしているのでしょうか。それは、健全なからだ(教会)を保ちなさいということです。

 私たちのからだは、常に健康とは限りませんね。弱ることもあり、痛むことも、そして病むこともあるのです。

 同じように、キリストのからだに属している私たちも、これまでに多くの弱さや痛みや辛さを経験されたのではないでしようか。

 たとえば、様々な理由があったとしても、長年、共に教会に属していた信徒が教会を離れられるというのは心が痛みます。

 当然、教会のメンバーが少なくなると弱い部分が生じてくるのです。そのような時に、教会が守られ、再建するためには、現状のメンバーによってからだ(教会)づくりに取り組む必要があるのです。

 そこで大切なことは、ある器官が病気で弱っている時には、異なる器官がその弱さをカバーしなければなりません。

 もちろん、病気である器官(器官は、ギリシャ語でメロス、メロスからメンバーという言葉に)は最善の治療を必要としているのです。

 そうすることによって、からだ全体が少しずつ健康を取り戻して行くのです。

 第一コリント12章24、25節でパウロは、「からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」(第3版の訳)と言っています。

 さらに、4節、5節ですべての器官が同じ働きをしないと言っている。つまり多様性があるということです。言い方を変えれば、違いがあるということです。

 違いを受け入れ、認め合ってお互いを大切にするとき、各器官は有効に働き、からだ全体が健康になっていくのです。

 ですから、手と足の働きの共通点を探し出す必要はないのです。手は手として、足は足としての働きがそれぞれあるのです。

 つまり、それぞれが異なる器官であっても、お互いに必要としているのです。もし、そうでなければからだは成り立たないのです。 

 そこでパウロは、さらに具体的にその働きの違いについて6節から8節で語っています。

それは、神が一人ひとりにお与えになる異なる賜物です

 賜物とはギリシャ語ではカリスマです。それは、一般的には人々を魅了する才能・指導力・教祖的な存在という意味合いで用いられていますが、聖書が言うカリスマとは、第一に新生したクリスチャンすべてに与えられているものです。

 さらに、パウロは第一コリント12章11節で、「御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。」と言っています。つまり賜物とは神様からの贈り物(英語ではギフト)なのです。

 この賜物に関して大切なことは、自分にはどのような賜物が与えられているかを知ることであり、さらに重要なことは、その賜物がいかに用いられているかということです。

 6―8節においていくつかの賜物について述べられています。

 まず6節にある賜物は、「預言」の賜物です。それは神からのメッセージを預かり伝えることです。

 次に7節にある賜物は「奉仕」「教え」です。「奉仕」とは、共同体(教会)の管理に関わる奉仕、あるいは貧しい信徒に対する経済的援助、並びにお世話(ケアー)するというものです。

 続いて「教え」とは、クリスチャン生活に関する聖書の知識について教えることです。

 そして8節にある賜物は、「勧め」「分け与える」「指導する」「慈善を行う」です。

「勧め」とは、困難な問題に直面している人を慰め、励ますという賜物です。

「分け与える」とは、愛の心を持って、惜しまずに、純粋な思いによって必要に応じて献げ物をするという賜物です。

「指導する」とは、先頭に立ち、熱心に、注意深く指導するという賜物です。

「慈善を行なう人」とは、あわれみの行ないをする。貧しい人を助け、困っている人を援助するといった賜物です。

 私にはこのような賜物が無いと思われるかも知れません。しかし、これら以外にも多くの賜物があります。

 もし、私たち一人ひとりが神様の前に、自分にはどのような賜物があるのですかと尋ね求めるなら、主は示してくださり、また与えてくださるはずです。

 そして、その賜物を教会のために用いられたいといった一人一人の願いから、教会を元気付け、教会を健全にし、そして健康にしていくのです。

 主の救いに召された皆様とご一緒に、主に喜ばれる教会を建て上げて参りましょう!

 それは、救われた者に託された神様からの尊い使命ではないでしょうか。