『この人を見よ!』 なぜキリストは十字架に?  ヨハネ19章1―16節 19.10/20 港

 

    『この人を見よ!』

    なぜキリストは十字架に?

 ヨハネ19章1―16節  19.10/20 港

召天者記念礼拝も今年で4回目を迎えました。何よりもこの日を覚えて御出席してくださっている皆様に心より感謝いたします。

けさも、すでに天国に召されている方々を偲びつつ、この聖書からお話をさせて頂きます。

 私が奉仕していた教会出身で、現在は東京の経堂で牧師としているのですが、当時神学生の彼と一緒に大和八木駅前にある近鉄百貨店の本屋さんの前で休憩している何人かに話かけました。

その時に一つの事に気づかされたのです。それは、イエス・キリストが十字架に付けられた歴史的な事実は皆さん知っておられたのでが、では、なぜイエス・キリストが十字架に付けられたのかを知っている人が一人もおられなかったのです。

 けさは、イエスはなぜ十字架に架けられたのかというテーマでみことばを見ていきましょう。

 けさの聖書箇所に、ピラトという人物が登場します。彼はローマ帝国から遣わされたユダヤの国を治める総督でした。彼の重要な任務とはユダヤを平穏に治めることでした。

 ところが、彼にとっては実に不運?な事件が起きました。それは、ナザレのイエスという人物のことでユダヤの国全体が騒然となっていたのです。

というのは、イエスが当時のユダヤ人宗教家によって捕らえられたのです。彼らの主張によると、このイエスは神を冒涜し、人々を混乱させる不届き者で、しかも、律法によるなら神を冒涜した者は死刑に価するということで、ピラトの前にキリストを引き連れて来たのです。

このような事態に陥り、非常に困惑したのがピラトであります。というのも、彼らの宗教上の理由によって死刑宣告を受けたイエスには、十字架刑に処する罪を見出すことができなかったからです(4節)。

それどころか、イエスは病む人をいやし、愛の教えを説き、人々を励まし、慰め、また人々を愛されていたのです。

そこで、ピラトはイエスを何とか釈放しようとして(18章39節、12節)、恩赦という制度でイエスを釈放しようとするのですが、すでにユダヤの宗教家たちに扇動されていた群衆たちは、「釈放するのはその人ではない。バラバだ。」と叫んでいたのです。

それを聞いたピラト(ピラトはすでに彼らがねたみによってイエスを引き渡したことを知っていたのです:マタイ27章18節)は、やっかいなことになって来たと思い、何とか騒ぎを収めようと咄嗟に思いついたのが、イエスを鞭打ち刑にすることでした(19章1節〜)。

「見よ、この人だ。」(19章5節)とイエスを無力で弱々しく、情けない男であることをユダヤ人に見せつけることによって、彼らの気持ちがおさまると考えたのです。

ピラトは、無実の人間を十字架に付けることには良心の責めもあったはず。いやそれ以上に間違った裁判をすることは自分の地位を失いかねないのです。

ですから、ピラトがイエスを釈放しょうと努力したのは、自分のためであったと考えるのは妥当であります。

ピラトはあくまでも自己保身のための行動を取っていたのです。それは、イエスを鞭打つことによって、もう十分刑罰を受けたではないかと、人々(特にイエスを訴えている宗教家たち)を納得させて、その場をおさめ、ユダヤの国の平穏を取り戻そうとしたのです。

ところが、6節では、祭司長や役人たちは、イエスを十字架につけろと叫んでいたのですが、彼らの国の法律によれば死罪に当るという言葉を聞いて、ピラトは非常に恐れたのです(7節、8節)。

そこで、ピラトは自分の身の危険を感じ、何とかしてこの難を逃れるために、自分には、お前を助ける権威があるとイエスに告げるのですが、イエスは何も答えられず、一言も話されなかったのです。

 

@スーパーの駐車場で一台の車と接触したときに、若い女性運転手が降りて来て、一方的に私に非があると主張しました。しかし最終的には写真判定やお互いの証言によって、相手が悪いということになりました。後日その女性から私に謝りの電話がありました。事実が証明されてほっとしたのです。無実なのに犯罪者にはなれないのです。それが普通の人の至極当然な思いなのです。

 

しかし、イエスは一言も弁明されず、むしろ、ローマの総督ピラトの権威に優ることを語られたのです(11節)。

そのような中で、ピラトはあくまでもイエスを釈放しょうと努力するのですが、「この方を釈放するなら、あなたはカエサルローマ帝国皇帝の総称)の友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」

この言葉を聞いたときにピラトはイエスを十字架に付けるためにユダヤ人たちに引き渡したのです(16節)。

もはや、イエスを十字架刑から救う人はだれもいなくなりました。肝心のキリストの弟子たちは恐れて、イエスを見捨て、仲間の家に隠れてしまったのです。

ついにイエスは十字架の木をかつがれて、ゴルゴダという丘まで行かれ、両手両足を釘付けにされて十字架に付けられたのです。

その日は金曜日でした。時刻は朝の9時。その丘には、3本の十字架が建てられていたのです。右と左は極悪人でした。道行く人々も、ローマの兵士たちもイエスをののしりました。しかしイエスはそれらの仕打ちに対してただ黙っておられたのです。

「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。」(ペテロ第一2章23節)

さて、極悪人たちも始めの間はイエスをののしっていたのです。しかし、3時間ほど経った頃に変化が起こりました。 

一人の極悪人はあくまでもイエス(キリスト=救い主なら自分とおれたちを救え!)をののしり続けていたのですが、もう一方の極悪人の心に変化が起こったのです。

彼は、「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしていない。」さらに、「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と願った時に、イエスは彼に、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23章39節~43節)と告げられたのです。

この極悪人は、3時間の激しい苦しみの中で、自分の隣にいるイエスを見ているうちに、この方はまことの神であると確信したのです。

激しい苦しみの中で人々を恨まず、むしろ彼らの赦しのために祈られた姿を見て、この人のうちに神(キリスト)を見たのです。

エスの弟子であったペテロも「キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。」(第一ペテロ2章24節)とイエスについて語りました。

最初に触れましたが、なぜイエス・キリストが十字架に付けられたのかということをほとんどの方が知りません。私もその一人でした。しかしこの聖書には、明確にイエス・キリストの十字架の意味について書かれているのです。

パラダイスを約束された極悪人のように、自ら罪人であると認めるなら、全ての罪が赦され、天国の約束を頂けるのです。

一人の少年が、キリスト教のラジオ番組で牧師に相談したのです。「自分はガンで死ぬのが恐いです。天国に行くためにどうしたらいいですか」という質問でした。それに対して牧師は、イエス様について大切なことをまとめて短く話しました。そしてその少年はお祈りをして、イエス様を信じて天国に行きました。

私たちもけさ、この大切なメッセージを心の耳で聞きましょう。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(私たちを)を愛された。それは、御子(キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節)

 

 けさのタイトルである「この人を見よ」は讃美歌121でも歌われています。

   馬槽(まぶね)の中に 

1 馬槽(まぶね)の中に 産声あげ 木工(たくみ)の家に 人となりて 貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ

2 食する暇も うち忘れて しいたげられし 人を訪ね 友なき者の 友となりて 心くだきし この人を見よ

3 すべてのものを 与えしすえ 死のほか何も 報いられで十字架の上に 上げられつつ 敵を赦し この人を見よ

4 この人を見よ この人にぞ こよなき愛は 現われたる この人を見よ この人こそ 人となりたる 活ける神なれ