「真実を曇らす心のおおい」要約 第2コリント3章12―18節 2022.1/23 港キリスト教会

    「真実を曇らす心のおおい」    

           第2コリント3章12―18節

 

  当時のコリント教会において、ユダヤ教主義思想(的外れな律法主義)が、健全な教会形成に不一致と混乱をもたらしていた。

 そこで、パウロは古い契約から新しい契約の時代(律法から恵みの時代)に移行したことを伝えている。

 では、この日本においても文化、風習、しきたりといった決まりごと(律法的な?)が多い中、クリスチャンはいかに関われば良いのか。

❶神からのものかどうかの吟味(聖書に照らして)

❷信仰に支障をきたらす異教の行事には要注意

❸周りの人に躓きを与えないように配慮(例えば、まことの神を知らないで宗教行為をしている人々をさばくのではなく、その人たちの救いのために祈る) 

 さて、パウロは新しい契約による救いにあずかっている者は、御霊の働きによる自由があり、異教社会におけるあらゆる慣わし(風習・しきたり)から解放された者であり、人々の心を縛り、永遠の死をもたらす罪から解放されて自由の身とされた者であると語っている。

「神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました。」

                            (ローマ6章17、18節)

 

「古い契約と新しい契約」要約 第2コリント3章1—11節 2022.1/9 港キリスト教会

 「古い契約と新しい契約」 第2コリント3章1—11節 

 

 パウロは、ここで古い契約と新しい契約を対比している。

石の板vs心の板(3節)

文字vs御霊(6節)

死の務めvs御霊の務め(7、8節)

罪に定める務めvs義とする務め(9節)

消え去るべきものvs永続するもの(11節)

◎古い契約とは、いけにえ制度による救済である。

◎新しい契約とは、キリストの十字架の死による罪から救済である。

新しい契約の時代に生きる者にとって二つの大切なことがある。

第1に信仰の証しの大切さである。

信仰によって良い実を結ぶ。

❷人々への信仰のあかしである。もしクリスチャンであることを閉口するなら、人々が救われる機会と教会に来るきっかけを失いかねない。

第2にその務めの重大さである。

 クリスチャンは大切な務めを担っている。それは、聖書の教えから人を罪に定めるのではなく、人を義とする栄光の務めを担う者である。

 とはいえ、私たちは砂の器(脆くて弱い)に過ぎない。しかし、私たちはイエスを信じて宝の器(貴重で、価値あり、朽ちない)とされ、その器の所有者はイエス・キリストである。

 

2022年 今年もよろしくお願いいたします         2022年 1月16日(日)

 年を明けて、正月の3日に港教会の教会員の高齢者の方(女性)が天に召され、金曜日に前夜式、土曜日に告別式を執り行わせて頂きました。前夜式には息子さんのお二人が出席、翌日は弟さんの御家族の方が出席されました。随分以前に、息子さんたちは洗礼を受けておられましたので、少ない人数ながらも大きな声で讃美歌を歌って頂きました。これを機に、イエス様のことを思い起こしてくださって教会に来てくださればと祈り願っています。

 遅すぎる新年の挨拶となりましたが、年を明けてバタバタしていますと、本日(日曜日)は、先週に信徒のご家族の方がコロナの陽性となり、信徒も濃厚接触者ということで、本日(1/16)の礼拝は中止となりました。

 このような訳で、慌ただしく年を越し、息つく間もなく新しい年を迎え、オミクロンによる急速な感染状況の中で、今年も礼拝が不定期にならないようにと心から祈るばかりであります。

「万物の終わりが近づきました」 第1ペテロ4章7−11節 要約 2022.1.2 港キリスト教会

 「万物の終わりが近づきました」 

    第1ペテロ4章7−11節                      

 A D70年ローマ軍によって、エルサレムは破壊され、ユダヤ人は祖国を失い世界に離散、およそ1900年後にイスラエル国家が、国連にて承認(1948年5月14建国)。

 この出来事は、エゼキエル(紀元前600年)37章の預言の成就であり、またそれは、世の終わりが近いことのしるしである。このような時代の流れの中で、ペテロによるクリスチャンへの勧めとは。

1.祈り続けるために心と体に気を配ることの勧め

 (7節) 

 ネロ皇帝時代(A D62〜66年頃)のクリスチャンに対する迫害という極度の緊張状態の中で祈り続けるには、「心を整え、身を慎みなさい」との勧めが必要だった。

「心を整えよ」(思慮深く振る舞う:共同訳)とは、正しい分別を持つことを意味する。世に流されず、今はどんな時代かをよく知り、思慮深く(わきまえて)生きるようにとの勧めである。

 惑わし、偽善、欺き、不義が満ちている現代において、思慮深さとわきまえ知る心は大切であり、わきまえのない、思慮深さのない生き方は祈り続けることの妨げとなる。

次に「身を慎みなさい」とは、本来酒に酔ってはいけないという意味があり、シラフ、あるいは正気であり、責任ある行動を常に心がけるという意味であります。

 つまり、この世がいかに流れても状況をよく見極め、慌てず、責任ある行動を取り、反対に、この世に流されて慎みのない無責任な生き方は祈り続けることを妨げるのです。

2.罪に打ち勝つための愛の勧め(8節)

「不法がはびこるので、多くの人の愛は冷えます。」(マタイ24章12節) 

 このみことばは、終わりの時代についてのイエスの預言である。

 罪が蔓延し、人々の愛が冷める時代にて、愛は大きな力を発揮する。この愛は、一時的、気まぐれ、冷める愛ではなく、愛する対象の如何に関わらず、また愛せる状況ではないにも関わらず愛するアガペーの愛(キリストの十字架による犠牲の愛)である。

 この愛は、罪の中に喘ぐ(苦しむ)人々に真の赦しと慰めと平安を与えてくれるものである。

 

「クリスマス・ストーリーの真実」要約 -これがあなたがたのためのしるしです- 2021.12/19 港キリスト教会                                        ルカ2章1-20節 

「クリスマス・ストーリーの真実」 

-これがあなたがたのためのしるしです-  

  ルカ2章1-20節 

クリスマスストーリーから3つの教訓について学ぶ。マリヤとヨセフは住民登録(ローマ政府の命令)のために、ナザレからベツレヘムに向かった(1-5節)。その距離およそ50キロ。

 身重のマリヤには大変な命令でしたが、マリヤは自分の身に起こるすべての出来事を受け入れていた。そして、ベツレヘムで月が満ちて男子の初子を産んだ。みことば通り(ミカ5:2 BC735-700)に、ヨセフとマリヤを無事にベツレヘムへと守り導かれ、神の御子はベツレヘムでお生まれになった。

第一の教訓:どのような状況の中でも神は守り導いてくださる。

 

さて、ベツレヘムは住民登録で大勢の人々がいて宿が取れず、御子イエスは家畜小屋(岩を掘ったもの?)で生まれられた。なぜ、神は御子イエスに汚れた家畜小屋を用意されたか。それは、羊飼いにとって最善の場所であった。

 というのは、羊飼いたちが宿を探し当てるのは困難であったが、飼葉桶がある家畜小屋を探し当てることは難しいことではなかった。つまり、神は羊飼いたちのために最善の用意をされていた。

第二の教訓:難しい状況の中にも神の最善がある。

 

最後は、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(7節、12節)

 このしるしとは、そのものを他のものと区別するための独特なしるしという意味である。

「羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(2章20節)。

第三の教訓:神は御使いの知らせ(みことば=聖書)を通して真実を知らされた。

 

クリスマスにいう「救い主」とは「油注がれた王」のことで、ヘブライ語では「メシア」、ギリシャ語では「キリスト」(クリストス)である。

 そして、教会に掲げられている十字架は、キリストが私たちの罪を贖って下さったというしるしである。

 この神の御子キリストを信じるなら、その人の罪が赦され、永遠のいのちを得て天国に行くことができるというのがクリスマスの真実(しるし)である。

「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

             (ルカ2章11節)

 

「神様に感謝します!」要約 第2コリント2章12—17節 2021.12/12 港キリスト教会

 「神様に感謝します!」

           第2コリント2章12—17節

  

  パウロの手紙には44回(聖書全体で156回)感謝という言葉が使われている。この12節〜17節においてもパウロの感謝の気持ちが表れている。 

 第1は神が共に働いて下さることへの感謝(12節) 

 それは、トロアス(現在のトルコの海岸沿い)での伝道の門戸を神様が開いて下さったことである。

 宣教(伝道)は神と共に進められ、神様抜きの宣教はあり得ない。神と共に宣教の働きをしていることを忘れず、そして結果は神にゆだねよう。

 私たちの教会も厳しい状況ではありますが、ここを拠点として港区の伝道の門戸を開いて下さった神様に感謝したい。 

 第2は神が導いて下さることへの感謝(14節) 

 パウロはコリントの教会のことで色々と悩み、心配し、気がかりであったが、神様がコリント教会の人々の心に働いてくださり、最悪の状況から最善へと導いてくださったことに感謝している。

 先の見えない状況から希望が持てるように、大きな不安に包まれていたが安心できるようになったことは感謝である。しかし、大切なことはそのプロセス(行程)における神の導きにある。

 私たちも、人生における様々な出来事の中で、感情に左右(振り回され)され、否定的な結論を出しやすいものである。しかし、神の導きによって最終的には益として下さり、感謝となることを信じたい。 

 第3は神に仕えていることへの感謝(15−17節) 「このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。」(16節)「誰が此の任に耐(たえ)へんや(文語訳)。」 

 人々の魂の救いという重大かつ重責な働きは荷が重い、しかしそのような光栄な働きに仕えることにおいてパウロは感謝している。

 その人が永遠のいのちに至るか、あるいは永遠の死に至るかどうかの働きがどれほど尊いものであるかは言うまでもない。

 確かに、みことばを語る使命と重荷はクリスチャンに委ねられている。しかし、救いについては福音を聞いた人に委ねたい。

 確かに、クリスチャンは神様のみことばの代弁者である。と同時にみことばを語るだけでなく、自らもみことばに生き、みことばに生かされる者であることを心に留めたい。

「真の解決」−さばきではなく愛で− 要約 第2コリント2章5―13節2021.12/5 港キリスト教会 

   「真の解決」−さばきではなく愛で−  

            第2コリント2章5―13節 

  コリントの教会内において罪を犯した人に対する懲罰の目的と意義について学びましょう。

 第1の目的は、懲罰が不公平なものとならないために(6節)

 この世において、不公平ではと思うことがしばしばある。しかし、教会は不公平や不平等があってはいけない。なぜなら、神にはえこひいきはないからである(使徒10章34、35節)。

 私たちのフイルターには偏見、誤解、勘違い、間違いといった曇りがあるために、聖書に基づいた戒規に従うことによって、不公平な懲罰から守られる。

 

 第2の目的は、罰することが主たる目的でなく、戒規を通して悔い改めと回復することを目的とする(7節)

 教会は懲罰によって、その人の悔い改めや、立ち直り(交わりの復帰)を困難なものとしてはいけない。むしろ、その人が悔い改めて、立ち返るために祈り、援助すべきである。また、懲罰を執行することで、加害者に対する被害者の復讐心が少しでも和らぐためでもある。

 

 第3の目的は、懲罰の背後にある神の愛を知るためである(8節)

 ある注解者は『愛から出ていない戒規は、正しい戒規とは言えない。愛は律法を全うするものだからです。』と言った。

 教会が懲罰により人を罪に定め、さばくことを第一の目的としない背景にあるのは、相互が神の愛を知るためである。懲罰の基であり諸刃の剣でもある聖書は、人を傷つけるためではなく、むしろ癒され、再び新しいいのちを得るためにある。

 懲罰が行使された最終ゴールは、和解、赦し、回復、癒しという相互による神の愛の体験である。