「収穫の主に祈りなさい」 ―働き手が少ないー マタイ9章35−38節 2023.7/16 大和聖書教会 50周年記念礼拝 2023.7/16

      「収穫の主に祈りなさい」

        ―働き手が少ないー 大和聖書

       マタイ9章35−38節 2023.7/16

 けさの大和聖書教会宣教50周年の記念礼拝のために、随分以前から準備をされて、礼拝時には信徒の証し、また証し集も作られ、礼拝後に「新しい教会の宣教理念の共有」「各部会活動ビジョンの共有」という報告も期待しております。

 さて、1973年7月15日に田原本キリスト教会の開所式がもたれ、開拓当時は武田洋牧師家族とU兄姉家族、そして当時神学生のT先生だけの礼拝が1年半以上続いたというエピソードを聞いております。  

 開所式3年後の1976年(26歳)に、私は教会の門をくぐり1977年に受洗いたました。

 その後、教会に導かれる方が増えてくる中で、1980年に献身、1983年に大和聖書教会に赴任。そして2015年に私の退職と同時に岩村先生ご夫妻を大和聖書教会にお迎え致しました。

 その後の7年間、およそ3年半のコロナ禍で、どの教会も伝道活動の難しい局面を迎えましたが、ようやく聖餐式や礼拝後に食事の交わりを持つ教会も出てきました。

 そのような中で、教会は3人の受洗者が与えられて感謝でした。

 昨年はK姉のご主人がイエス様を信じられて、クリスマスに受洗されるという報告を聞いて、本当に良かったなと思いました。

 2004年にF兄の葬儀にて、Kさん、Yさんも参列された中で、KさんがF兄(58歳)の棺の前で号泣しながら「俺より先に逝ってしまって」という言葉が今も忘れられません。

 Yさんを含め3人は親しくされていて、近所で会うと「生きてるか!」というのが挨拶だったようです。

 それから、およそ20年近く経過して、Sさんが昨年のクリスマスに受洗されたのです。

 つい最近、薬王寺のKさんのご主人の葬儀を教会で持たれて、その後Y姉宅にてご主人を含めて2、3人の方と聖書の学びをされていると聞き、イエス様を信じる方が起こされるようにと祈っています。

 ヨハネ4章37節にこのようなみことばがあります。「ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が借り入れる』ということばはまことです。」

 実は、Y姉宅で学んでおられるUさん、Iさん、またご主人の葬儀を依頼されたKさんも、前任武田牧師による婦人集会に来られていた方々です。

 その後に私が引き継がせて頂き、それから40年の歳月が経過して、今岩村先生が引き継いでくださっているのです。

 このように、大和聖書宣教50年の歩みの中で多くの福音の種が蒔かれ、少しずつではありますが刈り取りの時が来ているのではないかなと思っております。

 イエスは、『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の(第3版は欠く)収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」(マタイ9章37、38節)と言われたのです。では、このみことばの真意とは何でしょうか。

 「収穫が多い」というみことばを中心に考えると、救われる人がたくさんいるのに教会に人が来ない、さらに教会の高齢化、牧師不足と先行き不安材料ばかりといった状況に目を向けてしまいがちです。

 中には、牧師がもっと伝道しないと教会は大変だと考える信徒もおられることでしょう。

 実は、このみことばの真意とは、どれだけ収穫ができるかが中心テーマではなく、収穫のための働き手が少ないということで、主イエス様が弟子たちに喫緊の祈りの要請をされたのです。

 資料:無牧化の現状

プロテスタント教会約7900の内無牧の教会が300あると言われています(2014年)、兼牧も含めるとその数は約1000教会にのぼり、その比率は全体の13%にあたります。

 もれなく、M教会も兼牧を検討してもらいたいとの要請を受けるという中で感謝な出来事がありました。

 @今年5月末に一人の方が受洗されました。Sさん(58歳)が大阪市にある施設に入居されていて、糖尿病が原因で目がほとんど見えず、人工透析も週3回されています。当教会の信徒が介護の仕事中、その方にクリスチャンであることを証しされた時に、キリスト教に興味を示され、その方の部屋に行った時には、賛美と祈りの時を持たれるようになったのです。また I 牧師の一分間メッセージのC Dを購入されて一生懸命聞かれ、その後に、Sさんが洗礼を希望されたので、施設の中で受洗ということで、不備がないように信徒の方の事前の準備と祈りを重ねる中、先々月5月28日の夕方に、施設内にて受洗式と聖餐式を執り行いました。

 

 その日の帰り道、妻から「今までにない受洗式でしたね」と言われたのです。確かに振り返ると牧会40年、病床洗礼以外は、受洗のための学びは半年以上かけました。

 しかし、信徒がその方の信仰と受洗の決心まで導かれた後に、受洗式をさせて頂いたのは初めての経験だったのです。

 身近な方に自分がクリスチャンであるとの証しによって一人の魂が救われたという一例であります。

 確かに、神様は一人の救いのために一人の信徒を用いて下さるのです。

「あなたがたは、『まだ四ヶ月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいけません。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて刈れるばかりになっています。」      

               (ヨハネ4章35節)

 大和聖書教会宣教50年の歩みのなかで、確かな事実があります。それは、みことばの種が多く蒔かれてきたということです。

 もちろん、これからもみことばの種を蒔いていかれることでしょう。

 

「新しい教会の理念の共有」、「各部会活動ビジョンの共有」の実現のために、そして蒔かれた種の刈り取りのために、収穫の主に祈られて、ますます大和聖書教会が主に用いられる群れとなられるように心よりお祈りいたします。