「狭い門から入りなさい」
ーいのちに至る道― マタイ7章13、14節
「狭い門から入る」とは、ある人は「狭い門」とは神を信じて救われる人が非常に少ないと解釈。
しかし、文脈全体(5章1節〜7章12節)から見ると正しい解釈とは思われない。
では、「狭い門から入る」の意味とは。
神を信じる前の罪の性質(肉欲)による生き方は努力や忍耐を要しない。
しかし、そのような生き方は新生した者の生き方ではない。パウロは、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を脱ぎ捨て、霊と心共に新しくされ神にかたどり造られた新しい人を着なさいと(参考:エペソ4章22、23節)と勧めている。
実は、神を信じた者はすでに狭い門に入り、細い道を歩んでいる。つまり、狭い門から入るとは新しい生き方への決意と覚悟の表明である。
さらに、狭い門には2つの試みがある。
1つ目の試みとは、広い門から広い道を歩いている人を見て、神を信じてなくても人生を楽しんでいるように見え、聖書の教えに拘らず、自由に生きる方がいいという心のささやきにより信仰が試される。
多くの人は、広い門から入り広い道を歩む。しかし、その先には永遠の滅びという恐ろしい結末がある。
信仰者は、人を見て生き方を変えるのではなく、みことばの教えによって生き方を変えるのである。
2つ目の試みとは、狭い門から入るが、その道は困難が伴うために信仰が試される。
つまり、順風満帆の時は問題はないが、試練が襲うと歩んでいる道に疑問や不安が生じ神につぶやいてしまう。
しかし、その道は永遠のいのちに至り、そしてその道は、主イエスが共におられ、神の御国へと導いてくださる祝福の道である。
「右側の門は花が咲いていて広いが、その上には炎が燃えている。左側の門はいばらが生え狭いが、その上には冠が置かれている。」 (ジャン・カルヴァン)