「人が歩むべき道を照らす光とは」
―あなたがたは世界の光です― マタイ5章14―16節
「あなたがたは世界の光」と言われた光とは?
① 光は隠れることができない(14節)
主が「あなたがたは世界の光です。」と言われたあなたがたとは神を信じている者(クリスチャン)で、人目に隠れることのできない存在なのである。
ところが、周りの人たちの傾向としてクリスチャンは真面目で、純粋で、信心深く、愛があって、犠牲的精神があるといった先入観があり、何か特別な目で見られているのではといったプレッシャーはないだろうか。
確かに、周りの人たちは私たちの言動を見ている。でも、私たちは失敗や間違いを犯しやすく、完全な生き方はできない。しかし、神は、みことばに信頼し、忠実(真実・正直・誠実)に生きることを願っておられる。
② 光は闇を照らす(15節)
「すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた」(ヨハネ1章9節)。
このみことばは、イエス・キリストは生涯において罪を犯されず、真実と正義による完全な生き方をされた方は、全ての人々を罪ある者と断罪する(照らす)光であった。
私たちはイエスのようには生きることはできないが、世の罪という闇に対して光を投じることが出来る。
また、私たちがみことばに従う生き方を通してこの世の闇を照らすことができる。もし、この光がないなら、罪の力は人を誘い、人を貶め、人を破滅させ永遠の滅びに至るのである。
③ 光は輝き続ける(16節)
もし、神様に「あなたはクリスチャンとして光の役割を果し続けていますか」と問われるなら、自信をもって「はい」と言えるでしょうか。
「見せかけのへりくだりという高慢」という書物の中で次のような箇所がある。
『あなたはいつも、自分はそれにふさわしくないと思う。しかし、わたしがあなたを用いるのは、あなたがふさわしいからとか、その価値があるからというのではない。自分の力不足を見ないで、わたしの完全な力により頼みなさい。自分には価値がないことにこだわるのをやめ、わたしの義により頼みなさい。あなたが用いられる理由は、あなたの側にあるのではなく、わたしがどういう者であるかによるのである。自分には力がない、自分はふさわしい者ではないのは事実である。しかし、失望落胆して自分の弱さばかり見つめているのは、「見せかけのへりくだり」である。力のない自分、神様にとってふさわしくいない自分、そういう自分を愛して用いようとして下さる神の義を見上げなさい。力のない駄目な自分ばかりを見て、無力になっているのは本当の謙遜ではない。本当の謙遜とは、そういう駄目な自分をすばらしく用いてくださる神様の力を信じることである。』