『イエスの教え(Ⅰ)』心貧しく、悲しむ者がなぜ幸いなのか?要約  マタイ5章1―4節  港 2022.6/5

   『イエスの教え()』 

 心貧しく、悲しむ者がなぜ幸いなのか? 

 マタイ5章1―4節  

 

山上の説教から数回に分けて学んで行きましよう。

心の貧しい者がなぜ幸いなのか(3節)

  まず、「心の貧しい者」とはどういう意味なのか。聖書注解によると、「自分が無力であることを知り、ただひたすら神により頼んで生きようとする人」と解釈している。ですから、「心の貧しい者」とは、私には神が必要であり、神の助けがなければ弱い存在であると自覚している人である。

 では、なぜそのような人が幸いなのか、それは「天の御国はその人のもの」だからです。

 つまり、自分の無力さを自覚し、神を信じ、神に拠り頼んで生きる人が天国に入ることができる。つまり「心の貧しい者」とは、神を信じている者の特徴(品性)なのである。

 

悲しむ者はなぜ幸いなのか(4節)

エスが言われた、「悲しむ者」とは罪から来る悲しみである。自分の罪に気付き、深く悲しむ者の幸いについて語られた。

 人は、自分自身が犯した罪の本質(原罪)そのものを知らない状態にある。つまり、人は原罪に気付かない限り、人間にとって最も不幸なものが何かを知ることは出来ない。聖書は原罪による永遠の死(魂の永遠の滅び)こそ、最も悲しむべきものであると言っている。

 罪を犯しやすい自分の弱さを知り、罪を犯しために悲しむ人を神は慰めてくださる。そのような人こそ幸いであるとイエスが教えられた。

 なぜなら、その人は悔い改めへと導かれ罪が赦されるからである。キリストの十字架による贖いを通して、私たちはイエスを神の御子と信じるなら罪が赦され、永遠のいのちが自分のものになるからである。