「神を恐れること」―アブラハムの感性に学ぶ− 創世記18章1―15節 19.9/1 港キリスト教会

 神を恐れることアブラハムの感性に学ぶ−

                創世記18章1―15節 

 かつて神は、アブラハムに3度声をかけられた。そして、今回は三人の御使いを遣わされた。アブラハムは神から遣わされた御使いとは知らずに、彼らを見るなり、彼らの所に走り寄り地にひれ伏して礼をし、彼らを手厚くもてなした。

 すでに99歳になるアブラハムは、数百人以上のしもべを持つ権威ある族長であったが、彼の行動から鋭敏な感性を見るのである(センシビリテイ―)。 

 ところが、堕落していたソドムの人々は二人の御使いを見て、彼らをもっと知りたい(不自然な肉欲:ユダ書7節)と言った。アブラハムの感性とソドムの人々の感性とには実に大きな違いがあった。それは霊的なものに鋭敏な感性と、肉欲的に鈍い感性との違いではないだろうか。

 では、この違いはどこからくるのか。それは、神を信じている者とそうでない者との違いではないだろうか。そして、それは能力の差、知識の有無、あるいは学力差、あるいは人間性の良し悪しではなく神の霊によるものである。

 次にサラ(89歳)について見ましょう。サラは、天幕の入り口で、主の使いたちとアブラハムとの会話を聞いていた。それは、来年の今ごろサラに子どもが与えられるというものであった。それを聞いたサラは心の中で笑った。

 ところが、心の中を読み取った彼らは、なぜサラは心の中で笑うのかとアブラハムに言った。御使いに問い詰められたサラは恐れて、「私は笑っていません。」と打ち消した。

 まさか、心の中まで見抜かれるとは思っていなかったのである。サラは神を信じてはいたが、不可能を可能にすると宣言される生ける神をキャッチする感性がサラには備わっていなかったのかも知れない。 

 さて、私たちの神をキャッチする感性はどうでしょうか。毎日同じ繰り返しの生活の中にあっても、私たちが神のご臨在に触れることができるという鋭い感性と豊かな霊性を、みことばと神との交わりによって身に付けたいものである。