「時を待ち望む信仰(Ⅰ)」−遅延による不信仰− 創世記16章1−16節 19.8/18 港キリスト教会

    「時を待ち望む信仰」−遅延による不信仰− 創世記16章1−16節 

  この箇所から信仰における遅延について考えよう。

 まず1~6節。アブラハムとサラに子供が与えられるという神の約束からすでに10年が経ち、アブラハム85歳、サラは75歳になった。そこでサラは、「主は私が子どもを生まれないようにしておられます。」(2節)と約束の遅延によってサラの信仰が揺らぎ、奴隷のハガルに与えられる子どもが、神の約束された子孫になるのではとアブラハムに提案。

 その後、ハガルに子どもが与えられた。ところが、ハガルはサラを見下げるようになり、サラは憤って、「あなたのせいで、こうなったのです。」(5節)と訴えた。サラの提案なのに、怒り、憤りの矛先が夫に向けられた。そこでアブラハムはサラに、「あなたの好きなようにしなさい。」(6節)と進言した。

 その結果、ハガルはアブラハムの家から去った。これは、生じた問題を正しく解決しないと間違った方向に事が進む一例である。とはいえ、人は不完全、間違いもある。ゆえに一つの問題が解決しても、再び問題が生じる。しかし、問題に突き当たるごとに成長していくなら、トラブルも成長するチャンスとなる。

 最後に7―12節から2つのポイントを見ましょう。1つは女主人の所に帰り、身を低くしなさいと御使による忠告。本来この忠告はアブラハムがすべきことだったが、主の使いがハガルに正しい解決を示した。しかし、その忠告はハガルにとっては負け犬のようではあったが、奴隷の身分で女主人を見下したために、家庭の秩序が崩れ、家庭に不和が生じた。聖書は、家庭の秩序の大切さを教える(エペソ5−6章等)。

 もう1つのポイントは、ハガルの子孫も数多く与えると神は約束された。神のみ旨から外れた彼らの行為にも関わらず、神は彼らを見捨てず、面倒を見られた。ただし、サラとハガルの両子孫の確執(イスラエルとアラブ)は今日も続いている。撒いた種の刈り取りは避けることはできない。

 さて、性急や焦りは神を待ち望むことを困難にさせる。祈りの答えがすぐに、あるいは、比較的早い時期に答えられるなら感謝である。しかし、場合によっては5年、10年、あるいは20年以上祈りの答えを待たなければならない時もある。しかし、祈りの答えは時の長さに関わらず必ずあることをアブラハムの生涯から学びたい。