「時を待ち望む信仰(Ⅱ)」 −不可能を可能とされる神様−創世記17章1―22節 19.8/25 港キリスト教会

「時を待ち望む信仰(Ⅱ)」 −不可能を可能とされる神様−創世記17章1―22節 

 今回も神の時を待つ信仰について学びます。神はアブラハムに3度声をかけられた。メソポタミアのウルにて(75歳)、10年後にカナンにて(85歳)、今回は3度目(99歳)。最初のみ声から24年の歳月が経過。アブラハムとサラにとって24年間は非常に長い。しかし、神の約束が遅延されたのではなく、約束を成就される時にあった。 

 神は時間(クロノス)以上に時(カイロス)を重視される。

 ①神の時とは、アブラハムとサラが万策尽きたその時に、神が最善の事をなされた。私たちも、忍耐して時間を待つと同時に、神の時を待つということを大切にしたい。

 次に、神の約束における②御心が大切である。では、神の約束における御心とは何か。それは、「わたしは、あなたの神、あなたとあなたの後の子孫の神となる。」である。では、なぜこの約束が大切なのか。それは、アブラハムの子孫がまことの神を信じ、その信仰が世界中の人々に広がることにあった。そこには一人でも滅びることを望まずという神の深い御心がある。

 最後は、割礼(=契約の意)についてである。神がアブラハムに割礼を命じられた意図とは、神とアブラハムとにおける契約が、割礼という儀式を通して確かなものであることを、彼自身とその後の子孫に認識させるためであった。

 しかも、神はアブラハムの子孫、その家に仕えるしもべや奴隷のすべてに割礼を施すことを命じられた。つまり、アブラハムの家族に関わる全ての人々に、そして今日のクリスチャン(信仰によるアブラハムの子)に神の祝福が及んだ。これこそが、割礼という儀式の中に秘められた③神の愛と慈しみと憐れみである。

 私たちは、時間(クロノス )の長さに心を奪われ過ぎず、神の時(カイノス)を忍耐しつつ祈りをもって待ち望みましょう。