港教会から帰り、河内国分駅のロータリーの信号待ちでエンジン停止のトラブルに!

40数年近くオートマ車を乗っていましたが、初めてのエンジン停止というトラブルに! 王寺方面、大和高田方面、反対は八尾方面、山沿いに王寺方面と往来の激しい交差点でのエンジントラブルでしたが、最初の写真の衝突緩衝設置の円筒前に車を停止することができました。

 JAFに電話し、そのあとすぐ近くの交番に駆け込み、7人ぐらいの警察官がおられ車を押しましょうとの助け舟、幸いエンジンをかけるとかかりましたが、とにかくレッカー車で車を購入した店まで運んで頂きました。幸いそこまでの距離が9キロで、レッカー移動15キロ以上有料からも助かりました。

 稀にしか起こらないエンジントラブルとのことでした。その後、またエンジンが止まるのではと心配しながらの運転となりました。

 

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「天国を保証する信仰」要約 第2コリント5章1—10節 2022.2/26 港キリスト教会

「天国を保証する信仰」第2コリント5章1—10節

聖書が教える死生観とは?

第1 死はすべての終わりではない(1−4節)

聖書は、「死後、人は神のさばきを受ける」(ヘブル9章27節)と死後について語っている。

 イエスを信じる者は、死後に新しい霊のからだを神から与えられる。それは、イエス・キリストの復活のいのちにあずかることである。

 キリストを信じる者にとって、死はすべての終わりでも絶望でもなく、天国の入り口となる。

 

第2 天国の保証は信仰による(5−8節)

地上にて、天国に行くことが出来るという確信は神の保証による。その保証(手付金)とは、神を信じる者に約束されている聖霊の内住である(エペソ1章13、14節)。

 地上では、この保証(手付金)仮契約であるが、死後本契約となり天国に入ることができる。

 

第3 正しい死生観は生き方を変える(9−10節)

パウロは、天国が約束された者は神が喜ばれることに焦点を当てて生きるようにと勧めている。なぜなら、イエスを信じる者は地上での歩みとその行いに応じて神からの報いを受けるからである。

 例えば、魂が救われるために労する者の報いは決して小さいものではなく、神の使命に立っている教会のためにとりなし(祈り)、仕え、奉仕する者の天の報いも決して小さいものではない。

「一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」(ルカ15章10節)

「見えないものに目を留めるなら」要約 第2コリント4章16−18節 2022.2/20 港キリスト教会 

 「見えないものに目を留めるなら」  

    第2コリント4章16−18節 

  迫害による困難な時代の中でパウロが、「私たちは落胆しません。」と言えた第1の根拠(16節)は、たとえ迫害によって命を失っても、キリストと同じように復活し、神の御国に行けるという復活信仰にある。

 復活信仰は打ち拉(ひし)がれた心に勇気を与え、御国への希望を抱かせる。たとえ、迫害による肉体的、精神的なダメージがあってもパウロは、「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」と告白している。

 次に、パウロにとって迫害は一時的なもので、軽い苦難であると言える第2の根拠(17節)は、御国にて神の栄光を受けることを待ち望んでいたことである。

 パウロは、苦難が大きれば大きいほど、天で受ける栄光はより大きいと考えていたのではないか。

 信仰による試練は、神様に見捨てられたのではなく、神様をどれだけ信じているかのテストであり、神様の愛がどれだけ大きいものであるかを体験するチャンスでもある。

 パウロが見えないものに目を留めて生きた第3の根拠(18節)とは、まことの神様を知っていたからである。目に見える一時的なものが、必ずしも悪いものではない。

 しかし、目に見えるものからは永遠についての答えはない。しかし、神の存在を知った時に永遠についての答えがある。

 私たちは、目に見える一時的なものに心を奪われ過ぎて、聖書の教えを軽んじ、神はおられないのではと疑うことのないように注視しよう。

「信仰は、望んでいることを保証し(実体)、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11章1節)

「土の器に信仰の宝を」要約 第2コリント4章7—15節 2022.2/6 港キリスト教会 

 「土の器に信仰の宝を」  

     第2コリント4章7—15節 

 

 パウロは、私たち人間にとってなくてはならないものについて紹介している。

 それは、福音(Good News=イエスの十字架による救い)という宝であり、その宝とは福音を信じることによって罪が赦され、永遠のいのちを得るものである(7節)。

 さらに、パウロはその宝の持ち主であるクリスチャンを土の器にたとえている。

 では、土の器とはどのようなものか(8−12節)。

それは、迫害の中で、恐れ、苦しみ、途方にくれる弱い土の器ではあるが、神の力を頂いているゆえに壊れることはない。

 たとえ、死ぬ(壊れる)ことがあっても、永遠のいのち(復活)を受けて天の御国に行くことができる(13、14節)

 パウロ自身、神様の力を持つ土の器というだけでなく、「今でも、私たちはこの世の屑、あらゆるもののかすになりました。今もそうです。」(第1コリント4章13節)と、弱さを持つ土の器であると自認している。

 このみことばの意味は、パウロ自身が自己卑下しているというのではなく、神の前にへりくだることによって尊く用いられ、そして、神様から大きな恵みをいただき、どのようなことがあっても、いつでも神様に感謝する者と変えられたという証しではないだろうか(15節)

 

 

 

 

 

 

 

「比類なき光栄ある務め」要約 第2コリント4章1-6節 2022.1/30 港キリスト教会

 「比類なき光栄ある務め」 

       第2コリント4章1-6節 


 聖書に無関心、あるいはキリスト教になじみの薄い人が多い国で、福音を語っても聞いてもらえないといった消極的な思いや先入観を持ちやすい。

 

 そして、神様を知らない人に神の救いを伝えることは実に光栄ある務めであるにも関わらず救われる人々はごく少数である。

 

 その要因の一つに、福音を伝える者の領域と福音を聞く者の領域であり、それは神の領域とサタンの領域である。 

 救いのみことばを聞いた人がサタンの領域にいるなら霊的には盲目の状態である。

 しかし、救いのみことばを聞いて心を開くと、その人は神の領域に移り、御霊の働きにより霊の目が開かれる。

 そのためには祈りが不可欠である。祈りがなければ人々の目をくらませているこの世の神、すなわちサタンの働きを阻止することはできない。

 人々がサタンの領域(永遠の滅び)から神の領域(永遠の救い)へと移されるために、忍耐強く祈り続けよう。

 主が来られるまで忍耐と希望を抱いて、比類なき光栄ある務め(証しと伝道)に勤(いそ)しもう。