「アベルとカイン」―人類最初の殺人事件― 創世記4章1−16節
兄のカインが弟のアベルを殺すという事件の背景には何があったのか。
第1にカインとアベルの家庭環境について。
アダムとエバが犯した罪は、神様への反逆であり、その結果、甚大な損失を招き、大きな悲しみをもたらした。それゆえに、アダムとエバは罪を持って生まれたアベルとカインをしつけるという責務を持っていたはずである。
ですから、彼らの子育てに何か問題があったとは考えにくい(聖書もこの点ついて何も触れていない)。それでも、兄が弟を殺すという事件を未然に防げなかった。
どんなに時代が変わっても人間の罪の本質は今も昔も全く変わらない。たとえ、一生懸命子育をしたつもりでも、罪の誘惑や罪の力からその子(その人)が守られるという保証はない。罪の誘惑やその力に打ち勝つ秘訣は、神様のことばである聖書に聞き従うことにある(参照:詩篇119篇9、11節)。
第2にカインとアベルの信仰の姿勢について。
神様にささげるという姿勢は親の信仰によるものである。つまり、二人が神様を信じているという前提で、神様はカインのささげものには目を留めず、アベルのささげものに目を留められた。
神様がカインを見下げ、アベルを特別視されたのではなく、二人の信仰の姿勢を正しく評価されたのである。神様は、人を分け隔てされず、良いものは良いとされ、悪いものは悪いとされ、物事を適当にはされない。
人と比べて、なぜ自分だけが苦しい目に、また悲しい目に会うのかと思う中で、神様。あなたは不公平な方ですと疑心暗鬼になることはないだろうか。しかし、神様の愛は不変で偏愛はなく、また神様は決してあなたを見捨てず、あなたを見放さない(ヘブル13章5節)。神様は罪人を見ず、ご自身の愛と慈しみに対して、私たちがいかに応答するかをご覧になる。
アベルは持っている物の中から最上の物をささげ、カインはささげなければならないという律法的、あるいは義務的(or適当に)な思いでささげたのではないだろうか。しかも、神様の真実な評価がカインの怒りを招き、その矛先がアベルに向けられた。そのために、カインは堪え難い罪責感を死ぬまで背負った。
さて、けさの学びの真理とは何か。それは、神様は私たちが罪を犯さないようにはなされず、私たちの自由意志を尊重されている。ですから、その自由意志による私たちの行いが、あらゆる罪の力、あらゆる罪の誘惑から守られ、神様に喜ばれるための大切なこととは、みことばを読み続け、みことばを学び続けることにある。