「交わりの回復のために」   マタイ18章15-20節 2023.11/26 港キリスト教会

      「交わりの回復のために」

      

              マタイ18章15-20節

 

 羊飼いが99匹の羊を残し、迷った一匹の羊を見つけるまで探すという譬話は、ひとりの人さえも滅びることは神の御心でないという文脈であり、そこには罪を犯した人の3段階の取り扱いの示唆がある。

 

第1段階は個人的に取り扱う(15節)

その目的は、罪を犯した人を失わずに交わりが回復することにある。まず個人的に責めるのだが、問い詰めてはいけない。その人の心が頑なになり、拒否反応を起こさないように柔和な心で接しなければならない(ガラテヤ書6章1節)。

 このようにして、その人が悔い改めたならその人を失わずに再び教会での交わりが回復する。

 

第2段階 事実(証言)が2、3人によって証明される(16節)

第1段階でその人が聞き入れないなら、他に1人か2人の証言によって事実を確認する。1人では偏見、誤解、間違いが往々にしてある。

 1人の証言は少なくとも2人以上の証言と一致しなければならない。人は自分が有利なように証言、弁解しやすいゆえに両方から聞くべきである。

 2人、3人の証人の必要は、その証言の確認のためで、その目的は罪を犯した人が罪の事実に目を向けて悔い改めへと導かれるためである。それでも聞き入れない場合は次の段階となる。

 

第3段階 公に取り扱う(17節)

 公にするのは罪を犯した人との関わりは2、3人だけでなく、教会の兄姉たちともある。

 ですから、その人は2、3人の兄姉を失うだけでなく、教会の兄姉全員を失いかねない。それを避けるために、もう一度チャンスを設けて、何とか兄姉が聞き入れて教会の交わりから去ることのないように努力する必要がある。

 それは、神の御子イエス・キリストが罪ある私たちを赦すために、人となられてこの世界に来てくださり、本来罪人が受けるべき神の刑罰を肩代わりして十字架で尊いいのちを献げられたからである。

「罪人を救う神の愛」 マタイ18章11-14節 2023.11.19  港キリスト教会

       「罪人を救う神の愛」

   

             マタイ18章11-14節 

 

エスによる「迷える羊」のたとえ話にある真意とは何か。

 

❶ 1つ目の真意とは、神様は一人を大切にされる(10節、11節)

エスが、弟子たちに迷える羊のたとえを話されるきっかけになったのは、「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」(マタイ18章1節)との質問からと思われる。それは、弟子たちの関心が己の評価にあったからでは。

 ところが、このたとえ話でイエスは、一匹の羊をあきらめずに見つかるまで探すほどに、一人ひとりが大切であることを教えられている。つまり、人の価値は他者の評価によるのではなく、神はいかなる人をも大切にされるということを知らないと自分は価値ある存在であることを認識することができない

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。」 (イザヤ書43章4節)

 

❷ 2つ目の真意とは、神様は忍耐深いお方である(12節)

 羊は常に監視していないと迷い出て、自分勝手な道を行くので羊の群れを飼うのは実に忍耐のいる骨おる仕事である。

 ですから、羊飼いは忍耐強い人でないと勤まらない。  「主は私の羊飼い」と証ししたダビデは、大きな罪を犯し嘆き悲しむ時も、忍耐深い神の前に悔い改めている。

 今も変わらず、父なる神は御子イエスの贖いを通して一人でも多く人が悔い改めて救われることを忍耐して待っておられる。

見つかるまでという羊飼いの心に、一人でも滅びることを望まないという神の忍耐を見る

 

❸ 3つ目の真意とは、神様は犠牲を惜しまれない(13節、14節)

「迷わなかった99匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。」(13節) 迷える羊を見つけるためにはいかなる犠牲をも惜しまないという羊飼いの深い愛が見える。イエス・キリストは神の御座から降りて人となり、私たちの罪の身代わりのためにご自身のいのちを十字架で捨てられた。この尊い犠牲の裏には、自己犠牲による無私の愛がある。

 その愛を具現化されたみことばが、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 (ヨハネ3章16節)である。

 

「人を変え、人を生かす信仰」 マタイ17章14—21節 2023.11.5 港キリスト教会 

   「人を変え、人を生かす信仰」

                                 マタイ17章14—21節 

 

山の麓にいた弟子たちが、てんかんの病の子を癒せなかった。それで、イエスは不信仰な曲がった時代と癒せなかった弟子たちの不信仰を嘆かれた(19、20節)。

 ここから、信仰とは何かを学びたい。

 

❶ 信仰と不信仰とは紙一重(14—16節) 

 祈りの結果如何で信仰のバロメーター(指標)は測れない。たとえば、重い病の人が祈っても癒されなかったのは、祈りが足りないからと祈りの結果の良し悪しで評価してはいけない。

 神様を心から信じて祈ることが大切であり、祈りの結果は神様に委ねたい。祈りの結果の良し悪しにとらわれると不信仰に陥る。まさに信仰と不信仰とは紙一重である。

 

この世というフイルターによる不信仰(17-18節) 

 この世のフイルター(偏見)は、聖書にある信仰の世界を歪める。今日、溢れる情報に振り回されて聖書の世界観がますます希薄になる。

 しかし、有史以来全能の神の前に人類は無力であることを聖書が証明している。信仰者は、世の価値観であるフイルター(偏見)で霊の目を曇らせないようにしたい。むしろ、みことばのフイルター(濾過)を通して真理の道を歩みましょう。

 

❸信仰は私たちの人生に計り知れない可能性をもたらす(19-21節) 

 人生における不安、恐れ、悩み、心配、思い煩いといったネガティブ(否定的)な思いは不信仰の種。しかし、そのような問題の山が小さな信仰によって動かせるとイエスは言われた(20節)。

「まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ」と言えば、移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」 

 からし種は極小である。しかし、からし種が成長するとどの野菜よりも大きくなる。

 では、からし種の信仰とは? 「人生の諸問題を何とかしょうと頑張ることを傍に置いて、全面的にイエスにお任せする」ことではないだろうか。

「イエスの変貌とその意義について」マタイ17章1-13節  2023.10.29 港キリスト教会

     「イエスの変貌とその意義について」

                                        

           マタイ17章1-13節 

 

エスはペテロとヤコブヨハネを連れてヘルモン山(2800m)に登られ、そこで祈っておられると御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなり、モーセとエリヤも現れてイエスと話しておられた。

この出来事から、イエスの変貌の意義について学びましょう。

第1 エスの変貌の意義とは

 イエスの変貌は天の父からの力づけである。贖罪のための十字架の苦難に立ち向かう心がくじけないように、また勇気づけるためであり(一説)、またイエスが山に登られた目的は、天の父に祈り、十字架の苦難は父の御心であるとの再確認か。

【補足 なぜモーセとエリヤが現れたのか。モーセは律法付与者の代表、エリヤは預言者の代表、イエスモーセ(律法)とエリヤ(預言者)を代表、かつ罪の身代わりになるにふさわしい方であると承認する三者会談であった】

 

第2 弟子たちにとって変貌の意義とは

 3人の弟子たちが目撃したイエスたちの変貌という天的な経験は、やがてイエスの復活、聖霊体験、数々の奇跡の体験に彼らが過剰に反応して冷静さを失い、間違った行動をしないための前持っての教訓ではないだろうか。

 

第3 変貌による私たちへの適用

私たちのうちにある罪は、人を悪に豹変させる強力な力を持っている。

 しかし、イエスを信じて罪の力から解放され、内住の聖霊によって新しい人に変えられた(変貌)(コリント人への手紙第二5章17節)。

 そして、将来必ず変貌の時が来る。それは、イエスの再臨の時である。

「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者がよみがえり、私たちは変えられるのです。」

       (コリント人への手紙第一15章51−52節)