「世の終わりは?思いがけない時に!」
マタイ24章42−44節
キリストの誕生と死と復活の預言は成就した。次に再臨に関する預言はイエスの再臨である。その再臨の時期について概ね3つの解釈がある。
❶患難前期説 7年間の患難前に信者が携挙(まず死者、次に生きている者がよみがえりの体に一瞬に変えられる)されて空中で主と会う。
❷患難中期説 ❶の携挙の時期を患難中期とする。
❶❷ ともに患難時代の終わりにキリストとともに地上に再臨する。
❸患難末期説 キリスト再臨と信者の携挙とが同時に起こる。
今回は❶の根拠について触れてみる。
①黙示録6章ー18章には教会についての言及がない。患難期には教会が地上から取り去られている(信者の携挙)。患難後の19章ー21章では教会について言及している。
②患難の目的は、不信仰をさばくためである。特に不信仰なユダヤ人(エレミヤ30章7節ではヤコブ=イスラエル人の苦難の時)が患難を通して民族的な回復(回心)をするためである。
次に主の再臨を待ち望むための3つの備えについて。
Ⅰ. 再臨が近いという切迫感を持って
20-21世紀には、多くの偽キリストが現れ、戦争、民族闘争、飢饉、大地震、疫病、天変地異が起きている。
特に 最近は異常気象による世界規模の飢饉の危惧がある。
「これらのことをすべて見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(33節)
Ⅱ. みことばへの注意深い解釈と実践
普遍性、不滅性、信頼性のあるみことばに聞き、正しく学び、みことばに倣う生活を目指す。
「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(35節)
Ⅲ. 忠実なしもべとして
クリスチャンの大切な生き方の一つは忠実さである。今の奉仕を忠実に。いかなる奉仕であれ忠実さを怠らない。そして、主が見られるのは奉仕の内容以上に奉仕に取り組む心がけである。
聖書の解釈に絶対はない。何よりも神の御心と神の真実にお委ねする信仰こそ大切ではないだろうか。「たとえ明日、世の終わりになろうとも、私は林檎の木を植える。」(マルチンルター)