「イエスの復活」―失望から希望へ― ルカ24章1−12節 要約 2022.4/17 港キリスト教会

「イエスの復活」―失望から希望へ―   

                 ルカ24章1−12節 

 復活されたイエスに出会って弟子たちを一変させた復活信仰による3つの力について学びましょう。

 

 第1に、エスの復活は失望を希望に変える力(1−4

節)

 7つの悪霊につかれていたマグダラのマリヤは、イエスによって悪霊どもを追い出して頂き、絶望から希望のある人生へと変えられた。

 ところが、イエスの死は彼女にとって大きな失望となった。ところが、彼女が一人墓の前に佇んでいた時に、復活の主が現れて、「なぜ泣いている(泣き叫んでいる)のですか」(ヨハネ20章13、15節と声をかけられた。

キリストの復活によって絶望や失望は葬られた!

 

 第2エスの復活は死から新しいいのちに変える力(5−8節)

 マグダラのマリヤにとってイエスの死は全ての終わりだった。死は誰も避けることはできないが、死は終わりではない。

 死後、罪による永遠の死(地獄)を避けることは出来る。「キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかにされたのです。」(テモテ第Ⅱ1章10節) 

キリストの復活によって死は葬られた!

 

 第3エスの復活は不信仰に打ち勝つ(9−12節)

 生前イエスは、3度ご自身が死からよみがえることを弟子たちに語っておられた。しかし、イエスがよみがえられたという女たちの報告を聞いた弟子たちは、たわごとのように思えた。

 しかし、その後、復活のイエスと生活を共にした弟子たちから、不信仰という言葉は消え去った。キリストの復活によって、不信仰は葬られた!

 

『人間関係、うまくいっていますか?』要約 第2コリント6章11—13節 2022.4/3 港キリスト教会 

『人間関係、うまくいっていますか?』 

 第2コリント6章11—13節

 

 今回は教会における人間関係について学ぼう。

第1は、教会にも人間関係の難しさがある コリント教会の一部のクリスチャンが、パウロに不信感を抱き、両者の間には大きな溝があった。誤解の放置は人間関係をより悪化させる。誤解をなくすためにお互いのコミニュケーションが必要である。

 そこでパウロは、「私たちはあなたがたに包み隠すことなく(英訳:オープンに)話しました。」(11節)と語る。オープンに語り合う(隠し事をしないで、心の中に思っていることをすっかり話す=OPEN MY HEART)ことは大切である。

第2に人間関係で大切なことは、自分から心を開く (11−13節) 誤解している相手を批判している限り、壊れた関係の修復は遠のくばかりである。

 では、聖書はこれに関してどう語っているのか、「何事も利己的な思いや、虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」 (ピリピ2章3節)と自らへりくだって、相手を受け入れ、その人を尊重するようにと勧めている。

第3は、壊れた人間関係の修復は、相互の信頼関係から 

 パウロは、「私は子どもたちに語るように言います。」(13節)と語っている。パウロは、あたかも両者が親子関係かのように、不信感を抱いている信徒に呼びかけて、誤解を解くために、自らの証しによって両者の信頼関を修復しようとした。

 良い人間関係は相互の信頼関係が土台。どこかに偽りがあるなら良い人間関係を保つのは難しい。偽りはお互いの関係を壊すが、信頼関係は、お互いの欠点や弱さや不完全さを承知の上に築かれる。自分をさらけ出し、それを受け入れ合うことが出来る(自分をさらけ出し、多くを受け入れる=O P E N M I N D I D )というのが真の友を得る秘訣であり近道である。

 さて、関係に暗い影をもたらす罪から解放するために、また罪によって壊れた神との関係の回復(和解)のために、この世界に来てくださったのがイエス・キリストである。

「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、

 キリストにおいてあなたがたを赦してくださったので 

 す。」 (エペソ4章32節)

 人間関係がうまくいくための究極の秘訣とは何か。それは、お互いに赦し合いなさいというみことばを実行できるかどうかにかかっているのではないだろうか。

「試練や苦難は必要悪?」要約 第2コリント6章1—10節 2022.3/27 港キリスト教会

「試練や苦難は必要悪?」  

 第2コリント6章1—10節

  だれしも幸せで、苦難のない平穏な人生を願うものであるが、使徒パウロはどのような人生を送ったのか。

 彼は優秀なパリサイ人で、ローマ市民権を所有(資産、教養、しかも高い社会的地位を持っているごく限られた人)

 もし、パウロが優秀なパリサイ人のままなら裕福で安泰な人生を送れたはずである。

 ところが、イエスに出会って人生が一転。それは、苦難に満ち、災いの絶えない人生への一転であった。しかし、パウロは苦難が伴う人生を信仰によって受け止め、やがて神から頂く天の栄光と比べるなら、それらは取るに足りないものと考えていた(ローマ8章18節)。

 そのパウロが、「神の恵みをむだに受けないようにしてください。」(1節)とコリント教会のクリスチャンたちに懇願した。

 それは、神の救いにあずかるというのは実にすばらしいことである。しかし、神の救いを人々に知らせないなら、神の恵みを無駄にしているのであると忠告。

 そして、神の救いを伝える務めがそしられないために、人につまずきを与えることのないように自らを戒めるようにと勧める(2、3節)。

 さらに、パウロ使徒職としてふさわしくないという教会内の一部の反対勢力者に、これまでの伝道における現状を証しつつ、自分はイエス・キリストのために召された真の使徒であると弁明する(4—10節)。

 パウロの妥協しない信仰の姿勢は、ノンクリスチャンのみならず、時にはクリスチャンにおいても敬遠されていたのかも知れない。

「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(第2テモテ3章12節)

 信仰、信仰とあまり固いことは言わないでくれと揶揄(からかわれる)され、聖書に忠実に生きようとすると周りの人たちから煙たがられる。当たり障りなく、周りの人とうまく合わせて(迎合)生きて行く、避けられる試練は避け、無風で順風満帆な信仰生活のみを求めるなら、ごく小さな試練にも耐えられないかも知れない。

 神様を信じていても、クリスチャンは試練に会い、苦難を経験し、辛いことや悲しいことがある。

 では、なぜパウロが多くの試練を乗り越えることが出来たのか。4節で「あらゆることにおいて」と付記されているように、自分の身に信じられないこと(あらゆることにおいて)が起こったとしても、恥じることなく自分を神のしもべであると言うことができ、そしてパウロはいかなる試練の中でも、忍耐し、希望を持ち続け、神の栄光を待ち続けることができたのはなぜか。それは、生ける神の御子イエスとの確かな出会いである。

 私たちもイエスと日々交わり、語り合う(みことばと祈り)中で、イエスがより身近なお方となるなら、自分の身に起こった試練について驚き怪しむことなく、耐え忍び、その試練を神のご計画によると受け止めるなら、その人は将来において神からの栄光を受けるのである。

「私たちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重

 みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」

(第2コリント4章17節 新共同訳) 

「試練や苦難は必要不可欠である」

「神からの和解交渉」―負い目は問われず―  要約 第2コリント5章16ー19節 2022年3/20 港キリスト教会

  「神からの和解交渉」―負い目は問われず―   

 第2コリント5章16ー19節

 

 アダムの違反行為の結果、肉体の死と魂の永遠の死という神のさばきが全人類に及んだ。ところが、神の方から和解交渉を持ちかけられた。どのような提案なのか。

 

1.聖霊によって新しく生まれ変わるように(16、17節)

 パリサイ人であったパウロは、イエスを人間として見ていたために、イエスを信じるクリスチャンを迫害していた。ところが、イエスを神の御子と知った彼の人生は一変し、人に対する見方も全く変わったと告白(16節)。神の和解を受け入れた人は霊的な新しさにあずかるのである(17節)。

 

2.和解の務めにあずかるように(18―20節)

 一人でも多くの人が神の和解にあずかるためには、和解する方法を伝えなければならない。例えば、大津波を経験した親は、子孫にその教訓を伝える使命がある。同様に、神様を知らないで死ぬと、とんでもないところに行く(永遠の滅びというさばきを受ける)という事実を知らせる使命が与えられている。

 

3.霊的な救いにあずかるように(21節)

 危機的な状況や困難な状況から救ってくださいと神仏にお願いして聞かれると、それがその人の救いの理解となる。そのような救いも必要である。しかし、それらは現世的な救いである。

 しかし、霊的な救いとは、全人格的な救いであり、それは、私たちの創造者を知り、その方に感謝し、あがめ(礼拝)、畏れ、共に生きることである。

 

 この和解交渉のために、神の御子イエスが、負い目ある罪人のために十字架による身代わりの死(刑罰)という尊い犠牲が払われていた。

 

 

 これからの世界情勢・聖書預言セミナーのご案内

 永遠のベストセラーである聖書は、神からの預言書である。AD70年ローマ軍によって、エルサレムは崩壊し、ユダヤ人は全世界に離散。それから約1900年後1948年5月14日にイスラエル共和国が誕生。この出来事は、聖書の預言の成就である。今回は、今日のロシアによるウクライナ侵攻が、聖書預言のロシアと同盟国によるイスラエル侵攻(エゼキエル戦争)後、全世界が患難時代を迎えるのか等々学びます。

                                 場所  MB港キリスト教会 

    港区三先1丁目14−13   

       ℡ 06-6571-4087       

日時  3月27日(日)

    午後1時15分〜2時30分       

対象  聖書を全く知らない方〜              

*当教会は、約500年前に宗教改革

 生まれたプロテスタントの群れです。

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 「心を動かすキリストの愛」要約 第二コリント5章11-15節 2022.3/6 港キリスト教会 

    「心を動かすキリストの愛」     第二コリント5章11-15節 

 

  今回は各節のキーワードについて学びましょう。

まず11節は神の御前である。

 神の御前では、偽善、罪、悪は隠し通せない。しかし、罪を告白すると神に赦され、神の平安を得る。

次に12節は❷うわべではなく、心を誇ろうである。

 パウロは、教会の中にうわべ(ユダヤ人偏重主義(特権意識、雄弁さ、見た目の良さや評価)のことで誇っている偽の使徒たちを非難した。

 パウロは容姿堪能ではなく、雄弁ではなかったようである。でも彼は自分の弱さを誇りとしていた。「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(第二コリント12章9、10節) 

 

13節は❸神のために(あなたがたのために)である。

 イエス・キリストは十字架上にて罪の身代わりによる救いを示された。その救いは特別な人だけのものではない。 

 キリストは、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(ペテロ第二3章9節b)人々の救いのために労するのは、神(キリスト)のために生きることである。

 

14節は❹キリストの愛である。私たちは神に義とされてもなお罪人であり、肉の弱さがある。

 しかし、キリストの愛が私たちを取り囲んでいる(捕らえている)と約束している。

 

15節は❺キリストのために生きる(15節)である。

 パウロが、「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ一章21節)と語るのは、キリストに託された使命のために生涯をささげ、やがて来る死は、彼にとって絶望ではなく、キリストと出会えるという喜びでもあった。